平和主義と血なまぐさい大殺戮が同居する実話をメル・ギブソンが映画化『ハクソー・リッジ』(文/村山章)

解説記事 編集部 
平和主義と血なまぐさい大殺戮が同居する実話をメル・ギブソンが映画化『ハクソー・リッジ』(文/村山章)
ほとんど奇跡と呼ぶしかない、戦場ではおよそありえないような実話の映画化。しかし背景を紐解くと、ただの美談とも言い切れない気がしてくる。それは何故か?さらに、メル・ギブソン監督が「さすがに観客に信じてもらえない」と映画では削った、映画の上をいく仰天実話とは!?

目次[非表示]

  1. ●武器を持たないと神に誓った志願兵
  2. ●沖縄戦最大の激戦となった前田高地の戦いを映画化
  3. ●信仰と暴力に魅入られた男、メル・ギブソン
  4. ●デズモンド・ドスが信じた“神の教え”とは?

●武器を持たないと神に誓った志願兵

 『ハクソー・リッジ』は、ほとんど奇跡と呼ぶしかない、戦場ではおよそありえないような実話の映画化だ。太平洋戦争の末期、デズモンド・ドスという米兵が沖縄戦に参加し、一切の武器を持つことなく大勢の人命を救ったのだ。

 この逸話の奇妙さは、そもそもなぜ、武器を触ることすら拒否する兵士が存在したのかということ。ドスは「セブンスデー・アドベンチスト教会」というキリスト教一派の信者で、宗派の教えから非暴力を貫いたのだ。ただ、理解しがたいのは、そのドスが徴兵されたわけでもないのに、自ら進んで軍隊に志願したことである。

 劇中では上官が「戦う気もないのに何しに来たんだ?」とアタマを抱えて追い出そうとする。戦況が逼迫しているのにこんなモノ好きをかまっていられない、というのが軍関係者たちの本音だったろう。

 しかしドスは大真面目だった。「自由のための戦い」という戦争の大義を信じ、自分も役に立ちたいと願って志願したのだ。矛盾して聞こえるが、ドスの中では整合性が取れていた。負傷兵に応急処置を施す「衛生兵」になれば武器を持つ必要はない。どんなに過酷で前線でも、自分は丸腰のままで構わないとドスは心の底から信じていたのである。

 当然ながら、軍隊はそんなリクエストに応えてくれる組織じゃない。しかしドスは合衆国憲法の「信仰の自由」を理由に「武器を持たない兵士」の存在を認めさせることに成功した。もちろん周囲からは臆病者とバカにされた。ところがドスは沖縄最大の激戦と言われた「前田高地の戦い」で最も英雄的な兵士と評価され、アメリカ軍では最高位の“名誉勲章”を授与されたのである。

●沖縄戦最大の激戦となった前田高地の戦いを映画化

 デズモンド・ドスは戦場でどんな活躍をしたのか? ドスの所属部隊は沖縄に派遣され、1945年4月に“ハクソー・リッジ”とあだ名された「前田高地」の攻略に参加する。前田高地は沖縄本島を見おろすことができる、日米両軍が絶対に確保しておきたい戦略上の要所だった。

 ハクソー・リッジはノコギリの崖という意味で、米軍が切り立った断崖を登ると、塹壕にいる日本軍から集中砲火を浴びせられ多大な犠牲者を出した。映画では、縄梯子を使って崖のてっぺんにたどり着いたとたんに、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられる。勇気やスキルは一切役に立たず、コンマ一秒で命が奪われ、手や足を奪われた兵士たちの絶叫がこだまする。

 リアルで苛烈な戦場描写といえばスティーヴン・スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』が代表格だが、本作もバイオレンスの達人メル・ギブソンが監督しているだけに、目を背けたくなるようなゴア描写が満載。とりわけ肉体が損壊した負傷兵の描写に重きを置いており、スピルバーグの冷え冷えとしたカオスとは別種の生々しさがある。とはいえギブソンはただの悪趣味で目を背けたくなる描写を積み重ねたのではない。主人公のドスは負傷兵を応急処置する衛生兵で、部隊の誰よりも死や怪我と向き合う立場にあったからだ。

 ドスは部隊が撤退しても一人でハクソー・リッジに残り、死体の山をかき分けて負傷兵を手当てして、ロープを使って崖の下に降ろし続けた。ドスが救出した負傷兵の数は50とも100人とも言われ(公式発表では75人)、ある計算では平均10分に一人救出し、ときには日本兵まで治療したという。

 通常の戦場では、人道的な見地から衛生兵は狙わないのがマナーとされているのだが、戦力で劣り追い詰められていた日本軍は積極的に衛生兵を狙い撃ちにした。劇中でも、沖縄に到着早々、衛生兵を示す十字マークを外すように指示される場面がある。ドスは丸腰のまま前線をうろつき回り、生還する奇跡を成し遂げたのだ。

●信仰と暴力に魅入られた男、メル・ギブソン

 この極端な平和主義と血なまぐさい大殺戮が同居する実話を映画化するにあたり、メル・ギブソンに白羽の矢が立ったのは当然だったろう。ギブソンは『マッド・マックス』や『リーサル・ウェポン』の人気アクションシリーズでハリウッドスターになったが、映画監督としてはコマーシャリズムに回収されない暴力にこだわり続けてきた。
 
 とりわけ象徴的なのが、イエス・キリストの受難劇を描いた『パッション』。ギブソンはキリストの信仰心が試される姿をショッキングな拷問描写で描き出し、聖書に潜む残虐性を掘り起こした。本作のプロデューサーが最初にギブソンにアプローチしたのも『パッション』を観てすぐのことだったという。

 信仰と暴力に引き裂かれ、善き人でありたいと願う気持ちと内なる悪魔とが葛藤するのはギブソン自身の私生活にも当てはまる。ギブソンは途方もない才能を持ちながら、飲酒運転、人種差別発言、DV告発などでキャリアを台無しにし、一時はハリウッドからほとんど干された状態だった。『ハクソー・リッジ』はそんなギブソンの10年ぶりの監督復帰作となった。

 ギブソン自身は熱心なカトリック信者で知られ、信仰心と暴力衝動の間で苦しんできたはずだ。ギブソンはデズモンド・ドスをイエス・キリストになぞらえて、“愛”を武器にして人を救ったヒーローだと考えた。LAタイムズのインタビューでは「自分に同じことができるとは思えないが、ドスが成し遂げたことを見れば、いつか自分も同じくらい名誉あることができるかも知れないと思える」と語っている。一ファンとしては、本作を作ったことがギブソンにとっての悪魔祓いになったと願いたい。

●デズモンド・ドスが信じた“神の教え”とは?

 ただ、『ハクソー・リッジ』の物語やデズモンド・ドスの偉業を「信仰ゆえの奇跡」と位置づけていいものか、筆者は確信できないでいる。というのも、ドスの非暴力主義の源泉になっている「セブンスデー・アドベンチスト教会」の歴史を紐解くと、ただの美談とも言い切れない気がしてくるのである。

 セブンスデー・アドベンチストという名称は、多くのキリスト教と違い、安息日を週の初めの日曜日ではなく7日目の土曜日に定めたことに由来する。彼らはキリストの再臨によって世界は終わり、選ばれた者だけが神の国に行けると信じている。聖書の黙示録には様々な解釈があるが、セブンスデー・アドベンチスト教会は、神の審判が下って自分たちが救済される日を待ち望む宗派だと解釈することができる。

 ドスは幼い頃から人一倍誰かを助けたいという気持ちが強く、ラジオで誰かが交通事故に遭ったと聞くと、遠くの病院まで歩いて献血に通ったという(このエピソードは形を変えて映画でも採用されている)。類まれなる自己献身の人であったことは間違いないが、最前線で死を恐れず救助活動を続けられたのは、死の先に救済があると信じるゆえではなかったか。そしてその強い思いは、同じ信仰を持たないものには、ほとんど狂気と呼べるほど激烈なものに感じられるのだ。

 『パッション』でギブソンが描いたキリスト像もまた、狂気に近い信念で拷問に耐え抜く男だった。ギブソンは多くの監督作で暴力という絵の具を使い、またギブソン自身の人生を通じて、信念か狂気の境目を探求してきた。『ハクソー・リッジ』はギブソンのキャリアでも最もパーソナルな作品に思えてくる。

 最後にデズモンド・ドスの逸話の中から、ギブソンが「さすがに観客に信じてもらえない」と映画では削ったエピソードを紹介しておきたい。映画の終盤、重症を負ったドスが担架に載せられて運ばれていくのだが、実際のドスは別の負傷兵を見つけるや担架から飛び降りて、その負傷兵に担架を譲った。その際に日本軍に狙撃されて腕に命中したが、5時間半岩陰に隠れた後、自陣まで這って戻ってきたというのだ。

 また、ハクソー・リッジの上で救出作業をしていたドスを見つけた日本兵がライフルで撃とうとしたら、なぜか弾倉が詰まってしまい、何度試みても発砲できなかったというオカルトめいた証言もある。信じるか信じないかはあなた次第だが、『ハクソー・リッジ』という作品とデズモンド・ドスの逸話は、容易には答えの出せない問いをわれわれに投げかけているのだと思っている。
※作品契約期間により、配信終了となっている場合がございます。ご了承ください。
Profile : 村山章
映画ライター。配信系の映画やドラマをレビューする「ShortCuts」では代表を務める。ラジオ、テレビ出演、自主配給など、映画にまつわる諸分野で活動中。
©Cosmos Filmed Entertainment Pty Ltd 2016

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